朗読会のためのオリジナルストーリー

eチケット

 国際線ターミナルの混雑の中を突っ切って、空港直結のホテルに入った。いま確かめた時刻は、午後四時十二分。十二分の遅刻。智美は約束の時刻は確実に守るほうだから、たぶん自分は、十二分間彼女を待たせたことになる。
 ガラスドアを抜けてすぐ右手にレストランがあり、通路とは腰ほどの高さの仕切り壁で仕切られているだけだ。レストランの奥には円形のカウンターがあって、酒だけの客はそのカウンターに着く。この時刻、レストランは想像外に混んでいた。テーブルの席は、四割がた埋まっている。
 冬樹は、レストランの入り口へ向かって通路を歩きながら、智美の姿を探した。彼女は、カウンター席にも近いテーブルに着いている。壁に接したテーブルだ。目が合って智美が微笑してきたので、冬樹もうなずいて右手を軽く上げた。
 智美は、明るいジャケット姿だ。カジュアルではあるけれど、まだ少し堅苦しさがある。知り合って半年ばかり、いくらそれとなく不満を口にしても、堅苦しい印象は抜けない。
髪こそようやく伸びてきたが、以前はまるで就職活動中の女子大生のような雰囲気だった。もう社会人としても卒業して四年になっているのに。
 上着の内ポケットで携帯電話が鳴った。冬樹は右手で電話を取り出して、相手を確認した。仕事の外注先からだった。歩きながら、電話に出た。
 冬樹は、相手のあいさつを途中で制して言った。
「解決はしてるんだろうな」
 恐縮した返事があった。冬樹は畳みかけた。
「念を押したことじゃないの。駄目だよ。それに、それにもう金曜日のこの時刻で泣き言を言われても、対処しようがないよ」
 レストランの中に入った。若いウエイトレスが案内しようと寄ってきたので、冬樹は顎で智美を示した。待ち合わせだと言ったつもりだった。
 相手がまだ何か言おうとするので、冬樹は智美のいるテーブルに向かいながら、少し声をひそめて言った。
「とにかくそっちは専門家なんだから、泣き言言わないでやってよ。この段階まで来て、おれにしてもそれは無理だよ。いい? 切るよ」
 智美が少し不安げに冬樹を見つめてくる。冬樹は携帯電話をポケットに収め、笑みを作って智美の向かい側の椅子に腰を下ろした。
「トラブル?」と智美が訊いた。
「いや。なんでもない。業者が、ちょっと融通のきかないことを言い出して」
「深刻なんじゃないですか?」
「いや、たいしたことない。どうして?」
「電話しているときの顔が、険しかったから」
「べつに」と冬樹は苦笑して言った。「ちょっと真顔になっていただけだ」
「やっぱりお休み取るの、厳しかったんじゃないですか」
「いいや、トンボと旅行するためなら」と、冬樹はふたりだけのあいだで通じる智美の愛称を口にした。「無理をする価値はあるさ」
「ならいいんですけど」
「ぼくのことは心配しなくていいから」冬樹は、智美が紅茶を飲んでいることに気づいて言った。「お酒にしてもいい時間だよ。もう少しリラックスしなよ」
「してないですか?」
「せっかく初めて海外に行くんだし、泡にしない?」
「いえ。チェックインもまだだし」
 隣りのテーブルの中年男が、携帯電話を取り出し、話し始めた。三人一緒の客のひとりだ。韓国語だった。
 ウェイトレスが冬樹のテーブルの脇に立った。
「お決まりですか?」
 冬樹はウエイトレスに言った。
「カウンターに移れるかな」それから智美に言った。「あっちに行こう」
 智美は顔に戸惑いを浮かべた。
 冬樹は続けた。
「カウンターで飲むのが好きだと言ったろ」
 冬樹は立ち上がり、自分のキャリーバッグを持ち上げた。
 ウエイトレスに案内されて、カウンターの席に着いた。入り口を左手に見る席だ。レストランのテーブル席は目に入らない。
 冬樹がスツールに腰を下ろすと、少し遅れて、智美が自分のキャリーバッグを持って移ってきた。彼女は冬樹の左側のスツールに腰掛けた。
「荷物はそれだけなの?」と冬樹は智美に訊いた。
「スーツケースは」と智美は答えた。「入り口のところに」
「ほんとに泡にしない。ぼくはもういまから頭を弛緩させたい気分なんだ」
「向こうに着いたときも、ホテルにチェックインするまで素面でいたほうがいいと思うし」
「べろべろになるほど飲まないよ。気持ちをほぐすだけだ」
「あたしは、いい」
 冬樹は、カウンターの内側にいた中年のバーテンダーに注文した。
「泡」
「かしこまりました」とバーテンダーは丁寧に言って離れていった。
 冬樹はもう一度智美に目を向けた。
「あんまり気乗りしてないような顔だよ。子供の遠足じゃないから、うきうきしなくてもいいけど」
「そんな旅行慣れしてないから、不安も多くて」
「まさかぼくたちのあいだのことで不安になってる? 半年もつきあえば、多少関係が馴れ馴れしくもなる。このぐらいの頻度で、ふたりにとって新鮮な体験を持たないとね」
「それが、ノウハウなんですね?」
 冬樹は笑った。
「それが手口なのか?って訊かれたような気がする」
「そんなことありません」
「とにかく楽しい旅行になるよ。うちの取引先の若いのが、三日間びっちりアテンドしてくれるし。何か欲しいものがあるんなら、偽ブランド品の店にも案内してくれる」
 冬樹の言葉にかぶさるように、レストランのテーブル席のほうからどっと歓声が響いた。冬樹は思わず、舌打ちしていた。歓声が収まったあとに、ひとり年配の男が、大声で何か言った。イタリア語のように聞こえた。また笑い声が響いた。ちらりと振り返ったが、その客たちは目に入らなかった。でも、七、八人ぐらいのグループなのだろう。騒々しいわけだ、と冬樹は顔をしかめた。
 目の前にスパークリング・ワインのグラスが出た。
 また大きな笑い声が響いた。
 冬樹はグラスに手を伸ばして言った。
「あそこ、もう少し静かにならないかな」
 バーテンダーは、目にはっきりと驚きの色を浮かべた。
「お気になりますか?」
「限度を越してる」
 冬樹は顔を智美に向けた。
「ふたりの旅に乾杯」
 智美は口の端をわずかに持ち上げ、ティーカップに触れただけだった。
 いい終わらないうちに、携帯電話が震えた。冬樹はひとくちスパークリング・ワインを口に含み、飲み干してから携帯電話を取り出した。
 智美はカウンターの内側に目を向けている。まるでバーテンダーの仕事ぶりが驚異だとでも感じているかのようにだ。
 携帯電話に目を落とすと、画面には女の名が表示されている。冬樹は電話に出ることなく、もう一度携帯電話をポケットに戻した。
 それから左手を上着の内側に入れて、封筒を取り出した。自分の勤め先のロゴタイプが印刷されたものだ。
 冬樹はその封筒を智美の前に置いた。
「 eチケット。チェックインのときは、ひとりずつ持っていたほうがいいから」
「そうですね」と、智美は横目で封筒を見て言った。
 またレストランのほうで哄笑が起こった。いましがたと同じグループのようだ。
 バーテンダーがカウンターの中で、ちらりとその客たちのほうに視線を向けたのがわかった。
 冬樹はスツールから降りて言った。
「トイレに言ってくる」
 下りたところで、レジの近くにいたウエイトレスが一歩前に出てきた。何か質問があると察したのだろう。
「トイレは?」と冬樹は訊いた。
 ウエイトレスが答えた。
「出まして、ホテルのフロントを通りすぎたところです」
 レストランを出て、ホテルのロビーに入ったところで、冬樹は携帯電話を取り出した。いまかかってきた相手にリダイアルしなければならなかった。
 それからレストランに戻るまで、五分もかかっていなかったはずだ。再びカウンターに向かって気づいた。智美がいなかった。
 自分のスツールに腰を下ろして、ティーカップと封筒はそのままカウンターの上に置かれている。
 入れ違いになったか。
 冬樹は、自分の発泡性ワインのグラスに手を伸ばし、あらためてひとくち飲んだ。
 そのグラスのワインを半分も飲んだころには、冬樹は認めた。何が起こったのか。彼女はいまどうしているのか。
 もう一度横目で智美の席のカウンターの上を見つめた。縁にかすかにルージュのあとのあるティーカップとソーサー。そしてその右側には、 eチケットの入った社用封筒がそのまま残されている。
 また背後で大きな笑い声がした。
 冬樹は振り返ることなく、舌打ちした。こんどはっきりと、カウンターの内側のバーテンダーが気づいて視線を向けてくるだけの大きさで。

(了)

父の記憶

 ロビーに現れた父は、マスクをし、ステッキを手にしていた。
 ステッキは二年前、八十八歳の誕生日に、裕一が買って贈ったものだ。札幌のデパートに一緒に行き、紳士用の小物売り場で父自身に選んでもらった。それまで父が使っていたステッキは、安い実用品だった。父が軽い脳梗塞で倒れたときに買ったので、それまで八年間使っていた。塗料のほうぼうが剥げて、見栄えも悪くなっていた。
 それで裕一は、米寿の誕生日に新しい杖を贈った。
 その杖を、傘でも持つように左手に持って、父はケアハウスのロビーに出てきたのだ。裕一が会いに来たのは、ほぼ一年ぶりだった。新型コロナの心配があるにせよ、さすがにもう会いに来るべき時期だった。
 父はロビーで言った。
「おお、ひとりなのか」
「うん」と裕一は答えた。「調子は?」
「うん、変わらない」
 ぶっきらぼうな言い方だけれども、昔からだ。そもそも裕一は、父と親しく、屈託なく話したことがない。小さな子供のころは別として、物心ついてからはずっと、父とは距離があり、会話はいつもぎこちないものだった。
 父は玄関に出ると、ようやく杖をついて歩きだした。
 裕一は父に並んで言った。
「少し早いけど、何か食べに行こう」
「どこに行く?」
「回転寿司は?」
「入らないな」
「何がいい?」
「何でもいい。いや、公園まで行ってくれ。少し歩きたい」
 北国の九月、よく晴れた午後だ。緑の中を散歩するにはいい季節だ。このケアハウスからは車で十分くらいの距離に、大きな自然公園がある。何度か父を連れていったことがあった。子供のころは、家族でよく行った。
 ロビーの窓口で、裕一はケアハウスの職員に目礼した。新型コロナが広がってから、来客は利用者の個室までは、入れなくなっている。面会は玄関先でと制限された。ただし外出するのは、これまでどおり、かまわない。
 裕一は、父の歩調に合わせて駐車場に停めたレンタカーまで歩いた。
 車を敷地から出して、幹線道に入ったところで、父が訊いてきた。
「仕事は忙しいのか?」
「うん」と裕一は前方に目をやったまま答えた。「だから、どうしても来れるのは、このペースになる。申し訳ないけど」
「いいんだ。だけど最近は、コロナのせいか、由美子も来なくてな」
 姉のことだ。
 裕一は、とまどって言った。
「姉さんは、遠いし」
「前にあいつが持ってきた、桜餅がうまかった。こんどまた頼みたいんだ」
「ぼくが送るかい?」
「いや、いい。こんど電話がきたら、自分で頼む」
 裕一は横目で父の顔を見た。
「ほんとに体調のほうは?」
「あれ以来、全然なんともない。煙草もやめたし」
「医者は、何か言ってる?」
「定期検診のたびに、驚いている。ここまで回復するひとも、珍しいですよってな」
 じっさい、もう父の舌はもつれることがなかった。しゃべりかたが、入院以前よりも少しゆっくりになったと感じる程度だ。
 裕一は言った。
「もともと父さんは、健康だったから」
 公園に着いて遊歩道を歩き、出たあとは公園近くの農家レストランに行って、父は紅茶と洋菓子を頼んだ。裕一はコーヒーを飲んだ。
 他愛のない昔話を少しした。父がもっぱら、退職した直後のことを話したのだ。定年後のあの数年、父は存命だった母と一緒に、国内を何度も旅行した。そのひとつひとつの旅行のことを、父はよく覚えていた。もっとも印象的だったのは、南九州の旅行だったらしい。
 旅行のことをしばらく語ったあとに、父はしめくくるように言った。
「次は沖縄だな。たとえ車椅子になっていても、行ってみたいな」
 裕一は言った。
「いまは、コロナでこういう具合だから」
「わかっているって」父の声が少し不機嫌そうになった。疲れてきたのかもしれない。「そろそろ帰るか」
「そうだね」
 農家レストランの駐車場まで戻って、父をまた車に乗せた。
 走り出してから父はまた姉のことを口にした。
「由美子は、元気にしてるのか?」
 裕一は、言葉を選んで答えた。
「ぼくも会っていないんだ」
「このごろは、電話もないんだ。病気でもしてないかと」
「何かあったら、電話が来るよ」
「あそこは、うまく行っているのか?」
「円満かってことかい?」
「ああ。心配したこともあったから」
「昔の話だよ。いまは喧嘩もしないよ」
「お前のところは? 奈津美さんもみんなも」
 裕一は、ひと呼吸おいてから答えた。
「変りないよ」
「気をつけるように言っておけよ。コロナが終わったら、みんなで来てくれ」
「うん」
 あとはケアハウスまでの道、会話もなくなった。横目で見ると、父は目をつぶっている。眠ったのかもしれない。裕一はケアハウスに着くまで放っておいた。
 ケアハウスに着くと、エントランスまでゆっくりと一緒に歩いた。少し足を引きずり気味だ。さっきは玄関まで、無理をして出てきたのかもしれない。
 玄関脇の窓口で職員に、帰ってきたと告げた。
「それじゃあな」と父は言った。「由美子にも、たまには電話とか、手紙とか出せって言っておけ」
「わかった」
 父はエレベーターのほうへと歩いていった。少しのあいだ裕一は、父が去った先に目を向けたままでいた。
 エントランスを出たあと、車に向かいながら、東京にもどったらできるだけ早く、和菓子を送ろうと思った。桜餅は季節ではないが、日本橋あたりのデパートに行けば、季節の和菓子を選ぶことができるだろう。
 でも父は、その和菓子の送り状を見て、姉から送られたものではないことに落胆するだろうか。なんと情の薄い長女なのかと、悲しむだろうか。
 かといって、自分が姉の名で送ることなど、すべきではない。父が絶対にもう、姉の死を受け入れることはないと、確信は持てない。父がフラッシュバックのように事実を思い出したとき、余計な混乱をさせないほうがいい。
 裕一としては、いまはただ父の記憶を否定せずに、話を合わせておくだけでいいのだ。
 それに父さん、と裕一は胸のうちで呼びかけた。いまのぼくの配偶者の名前は、奈津美ではないよ。それは、五年間だけ結婚生活を送った、最初のひとの名前だよ。
 父さんが、ぼくの再婚のことをどんなふうに思っていたのか、その記憶の濁りで、見当がつくけれども。
 父はけっきょく、姉の死を受け入れていないのと同様に、裕一の奈津美との離婚を、ついに受け入れていなかったのだ。

(了)