くろふねノート

『ペリーの白旗伝説』についての考察

『ペリーの白旗伝説』なるものがある。
古くから語られてきた物語のようだが、最近、扶桑社の『新しい歴史教科書』が、
この伝説を事実として取り上げたことで、論争が起こった。
これについての考察を以下に記す。
(文体未統一)

伝説をわたしが要約すると、こういうものだ。

1853年、ペリーが浦賀に来航したとき、彼は秘密の脅迫書簡を幕府に差し出していた。
これは、通商しないなら戦争を始めると脅すもので、
ペリーは書簡を渡す前に、これは降伏の印だから降伏するときは掲げよ、と
わざわざ二本の白旗も日本側に渡していた。

アメリカ政府は、砲艦外交の証拠であるこの書簡を秘密とし、
幕府も、屈辱的な開国であった事実を隠すため、この脅迫のことを秘密にした。
日本人が、白旗は「和睦・降伏」の意味だと知ったのは、この脅迫によってである。
日米関係の悪化をおそれる日米両国政府は、この書簡と白旗のことを、
こんにちまで隠し通している。

(ここまでが伝説)

以上が事実である証拠は、高麗環(こま・たまき)文書である。
これは、秘密の脅迫書簡を読んだ小姓がその内容を日記に書き写し、
さらにこれを幕府の下級役人であった高麗環という人物が書き写した文書。
ペリーから渡された書簡原文は、日本語の古体文で書かれていた。この書簡の原本は焼失。

(これは伝説の成り立ちについての伝説)

この古くからの伝説を事実だと最近主張しているのは、まず麗澤大学教授の松本健一。
(『白旗伝説』講談社学術文庫、『日本の近代1、開国・維新』中央公論社)
さらに三輪公忠(『隠されたペリーの「白旗」』上智大学)

この松本説、三輪説を支持するのは、藤岡信勝、岸田秀、秦郁彦ら。

もととなった高麗環文書は偽文書である、と反論したのが、
宮地正人、大江志乃夫ら(すべて敬称略)。

この論争自体をテーマに、毎日新聞・岸俊光が『ペリーの白旗』というノンフィクションを
上梓している。著者自身の見解はあいまい。

しかしこれは、論争になるのがおかしいくらいの話だ。
岸俊光氏が紹介する宮地正人、大江志乃夫氏らの反論をわたしが補強して言えば、

1、「白旗が和睦・降伏のサイン」という認識自体が誤り。
松本健一も三輪公忠も、「白旗イコール降伏」を自明のこととして論を進めているが、
この基本的な勘違いのせいで、伝説を真実と思い込むに至っている。

白旗は通常は「戦意はない」ことのサインである。「和睦・降伏」とは無関係。
ハーグ陸戦条約の限定的な意味では、それまでの慣行の成文化として、
「軍使権の不可侵の保障」のサイン。

軍人のペリーが、こんなに単純にして重大な事実を誤って認識していたはずがない。
ましてやその誤った認識を、戦争があるかもしれぬと予測している相手国の政府に
伝えるはずがない。戦場で大混乱が起きる。

2、当時のアメリカに、日本の古体文を書ける役人または顧問(日系人とか)などはいなかった。
書ける人物がいたなら、わざわざペリーはオランダ語訳、漢語訳の国書など
用意する必要がなかった。

この一点だけ取ってみたって、高麗環文書の信憑性について判断できる。

3、ペリーは最初の来航時も、何度も艦隊の船に白旗を掲げさせている。

「ペリー来航時、初めて日本人は、白旗が和睦・降伏の印であると知った」という
命題そのものが誤り。誤解しようもない状況が、目の前に繰り広げられていたのだ。

宮地、大江両氏はこうも反論している。

4、当時アメリカは、日本に通商か戦争かという二者択一を迫る意志はなかった。
(補足)フィルモア大統領はペリーには、武力行使を厳に禁止している。
ただし、武力を行使する、と通告する権利だけは認めていた。

松本健一は、1853年(嘉永6年)のペリー来航の2日目(和暦6月4日)に、
「通商か、それとも戦争して降伏か」の脅迫があり、
降伏するときはこれを使えと、2本の白旗が渡された、と主張する。

松本健一も引用するように、この日、香山栄左衛門とブキャナン艦長とのあいだで、
白旗をめぐるやりとりはある。
ブキャナンは、国書の受け取り拒絶の場合は「存念に振る舞う」と、
上陸・江戸進軍を示唆したあと、このような事態に至ったときは、
「事平の用向きこれあり候わば、白旗を掲げ参り申すべく候」と言った。

これは日本側の記録(香山栄左衛門の報告。『浦賀奉行史』)。
「和平の交渉の場合は、使いは白旗を上げて接近せよ」と読める。
これは、現在の国際法の「軍使権の不可侵」を示す白旗の使い方とも合致する。
この記録から、日米双方がかなり厳格に言葉を使いつつ、交渉したのがわかる。

ところが、松本健一は書く。
「この記録は、日本史上初めて『白旗』が降伏のメッセージであることを日本人に
記憶させたものとして、きわめて重要な意味を持っている」
(『日本の近代1』)

どうしてそうなるのだろう。
わたしがこの記録に読み取れるものは、アメリカ側は白旗の意味を
『降伏のメッセージ』などとは日本に誤解させていないということだ。
なぜ松本健一のように解釈できるのか、わたしにはまったくわからない。

また、伝説が真実で、松本健一の解釈が正しいなら、日本側はこの記録を隠したか
抹消したのではないか。堂々と残っているのはなぜだ?

さらに、松本健一らが本物だとする日本語の脅迫書簡の、白旗をめぐる部分はこういうものだ。
「その節に至って、和降願いたく候わば、予め贈りおく所の白旗を押し立て示すべし」
そしてこう続く。
「しからばこのほうの砲を止め、艦を退けて、和睦いたすべし」

この文書からは、白旗は降伏のメッセージ、と読める。
白旗が上がった時点で、降伏・和睦の成立、ということなのだから。

でもこの書簡では、本来あるべき降伏交渉、調印という手続きが無視されている。
これは戦場での、あるいは外交上の慣行ではない。
明らかに、国際法を知らない(ただし日本語表記能力は驚異的な)人物が書いた文章である。

口頭の交渉では正確に白旗の意味と使い方を日本側に伝えることのできたペリー側が
正式の外交文書(秘密とはいえ)では粗雑にすませた、ということはありえない。

同じ日の、アメリカ側ウエルズ・ウイリアムズ『ペリー日本遠征随行記』には、こうある。
「彼らには、白旗がどういう意味のものかがはっきり教えられ、
朝、白旗があがるまでは訪問休止であると伝えられた」

つまりこの日、白旗の意味について慎重なやりとりがあって、
アメリカ側は、交渉者がやってきても安全である、という場合には
サスケハナ号に白旗を掲げる、と香山栄左衛門に伝えた。
この日以降は、おそらくは日中、サスケハナ号には白旗が掲げられたのだろう。
降伏、の意味ではなしに。
松本・三輪説では、このときペリーは、日本に降伏したことになるが。

この事実から考えても、ペリーが「白旗は降伏のメッセージである」と日本側に伝えた
はずはない。香山栄左衛門の記録をそう読むことは不可能だ。
高麗環文書と、サスケハナ号に掲げられた白旗の意味との整合性も取れない

ペリー側が、「降伏を申し入れたいときは、軍使はこの白旗を掲げてやってこい」と
2本の白旗を押しつけてきたと言うなら、その可能性もなくはない。
しかし、松本健一たちの主張はそうではない。

この日(嘉永6年6月4日)、アメリカ側は朝から測量隊を出し、短艇に白旗を掲げて
水深調査を行っている。この白旗も、降伏のメッセージではない。

この日、香山栄左衛門は、交渉の最初に、測量について抗議している。
当然このとき、短艇の白旗の意味が問題になっているはずで、
上記日米双方の記録も、これを受けてのものだと考えていいだろう。
白旗がすなわち降伏のサイン、という認識・誤解は、双方とも持ちようがなかった。

松本健一は、ペリーの『日本遠征記』にも私的な日記にも、
この白旗をめぐるやりとりの記述がないことを挙げて、
だから脅迫状と白旗の押しつけは事実であり、秘密にされたことが証明できる、とする。
「記録にない」から「あった」というのは、わたしのような小説家が使うレトリックである。

さらに松本健一は、問題の脅迫状について、これをペリーが日本側に渡した日を、
6月9日としている。9日に、国書に添えて提出されたと。
しかし、日本側が国書の受け取りを伝えた6月7日の時点で、双方の緊張は解かれていた。

いまふうに表現するなら、6月7日の時点ですでに事務方協議は終わっていたのだ。
6月9日には、大臣級同士のセレモニーがあっただけだった。
なのに、6月9日になって、ペリーはあえて、事態をリセットしかねない脅迫状を出すだろうか。
武力行使の脅しは、すでに効果を上げていたのに。

わたしは『白旗伝説』を読んではいないが、
『日本の近代1、開国・維新』の記述を読んで想像するに、
松本健一は、来航中、アメリカ艦艇が何度も白旗を掲げた事実を見落としており、
ウイリアムズ『ペリー日本遠征随行記』の白旗についての記述を知らない。

三輪公忠の著作にも、『随行記』の引用はなく、ウイリアムズの名を出している部分は1箇所のみ。

「ワイリー著の『ペリー提督と日本の開国』には…ペリーの懇請にもかかわらず、
公式報告書の作成には協力を拒み続けた、サミュエル・ウエルズ・ウイリアムズのことが
書かれている」
とだけ記す。

この項の注を見ると、
「ウイリアムズの日記は、彼の死後彼の息子を編者として出版された」
とあって、原題が記されているだけ。

つまり、三輪公忠も、翻訳もあるこの『随行記』を読んではいないことがわかる。


日本語古体文で書かれたアメリカ側からの脅迫状なるものがあって、それを小姓が読み、日記に書き、さらにそれをある役人が書き写した文書が残っている。脅迫状の原本自体は焼失した。

こんな話を根拠に、ひとつ学説を打ち上げるのは、無茶だと思う。
そもそも「白旗」は「降伏のメッセージ」ではないのだし。

という理由で、「隠されたペリーの白旗」伝説は、虚構である。

『再現日本史』(講談社)もこの伝説を支持。ほんとにあれは怪しげなシリーズだな。

この問題に関して、2004年6月、浦賀歴史研究会の方から、情報をいただいた。
問題に決着をつける史料の存在についてである。メール全文をここに転記する。

前略
 突然メールを差上げますが、友人の一人から先生が「くろふねノート」と言うものを、ホームページに載せているとの報せを受け、読ませていただきましたので、ペリー来航の地で数人の仲間とともに「地方文書」を読んでいる者ですが、以下のような「史料」がありますので、お送りする次第です。何かの参考になれば幸いです。
以上                         大出 鍋藏拝

浦賀奉行所の「白旗」に関する一つの史料

『新訂・臼井家文書第四巻』—浦賀奉行所関係史料・横須賀史学研究会編—
(平成十一年七月三十日発行)の一二二頁に以下のような記述がある。

「史料一」
  「浦賀表江異国船渡来之節、船印之義ニ付奉伺候書付」
                      土岐丹波守
                      田中一郎右衛門
  浦賀表江異国船渡来之節、兼而御渡御座候横文字諭書持参、一
  番船江通詞并組之者乗組為乗留罷越候節、異船江乗移候上は右
  諭書も有之、通詞も差遣候間通弁出来候得共、不乗移以前一番
  船近寄候を見請異船騒立、船路不案内より却て要地江近付候而
  は、御趣意ニも相背候義ニ付、右様之節之心得方通詞江も相尋
  候処、異国欧羅巴諸州とも都而軍船式法ニ而、敵船江使者差向
  候節、使者船之為合図白地之旗建候事之由、右旗有之侯得は異
  国船より案内仕、乗船為仕侯定法之段兼而かひたんより承置候
  旨通詞申聞候、依之定例御船印之外ニ右白地四半之幟相仕立、
  異国船渡来之節一番船江相用申度奉存候、
  且、松平大和守・松平下総守儀も同様乗留之船差出候儀ニ付、
  一番船江は白地四半幟相用候可申談哉奉存候、尤、右両家之儀
  は幟端縫ニ白糸ニ而家之印不目立様為付候様ニ可仕哉奉存候、
  右は通詞申聞候迄之儀ニは候得共、乗留等之節之一助ニも可相
  成哉と奉存候、依之此段奉伺候、以上、
   辰七月(天保一五年)      土岐丹波守
                   田中一郎右衛門

 と書かれており、ペリーが浦賀に来る以前(九年前)に「白旗」の意味を
浦賀奉行は知っていたのである。

 更に次のような文章が同書の一二九頁にある。

「史料二」
  「辰七月土岐丹波守殿・田中一郎右衛門殿御勤役之節、右両人
  より与力・同心月番之者御渡候御書取写、但、奉書二ッ折横帳」
                           与力江
                           同心江
  御船印之外ニ白四半御船印立
   押送形
    壱番船乗組
      御番所当番より
            与力    壱人
            同心組頭  壱人
            同心    三人
            通詞    壱人
   百目玉御筒壱挺
  右之内同心三人之儀は、当番拾三人之内非常当番と申名目立置、
  三人宛は兼て其用意いたし居速に出張可致候、
  通詞之儀は御役宅より出候間、若遅((マ)り(マ))候儀も有之候ハゝ弐番船
  江為乗組、壱番船之儀は無遅滞出張可致候、且、御筒類之儀は
  打払治定不致以前は目立不申様可取計候、
  外御船々之儀も同様たるべく候、

  御船印之外ニ白四半御船印立
   押送形
    弐番船乗組
            与力    壱人
            同心組頭  壱人
            同心    三人
   百目玉御筒壱挺
  非番与力・同心之内弐番船当番と申名目立置、与力壱人・同心
  組頭壱人・同心三人は遠方他行等不致、非常之節早速駆付可申
  候、尤、無余儀遠方他行等いたし候か、又は病気等ニ候ハゝ仲
  ケ間共江当番頼置、後日返番可致候、
  其期ニ臨ミ頼合いたし候儀は決而不相成事ニ候条、其旨急度可
  相心得候、且、銘々門口江弐番船当番と申掛札いたし置可申候、
  且又、壱番船江若通詞乗組不申節は、弐番船江為乗組候心得ニ
  可罷在候、(以下略)

 とあり、以下九番船まであるが、「白旗」を立てるのは壱番船と弐
番船だけになっている。

注 土岐丹波守・田中一郎右衛門は当時(天保一五年)の浦賀奉行
  である。

更に同書の一三九頁には次のような記述がある。

「史料三」
  土岐丹波守様               伊沢美作守
  田中市郎右衛門様             (注、長崎奉行)
  去月一八日附貴札去ル十日相達致拝見候、然は浦賀表へ異国船
  渡来之節、横文字御諭書持参之上可為乗留積ニ而、御組并通詞
  共一同御差出之節、船印之儀ニ付伊勢守殿江御伺書御進達被成
  候処、御覚書御添当地江懸合之上同様ニ候ハゝ猶又其節可被申
  上旨御差図之段、右ニ付御覚書写并御伺書写共被遣之、御相談
  之趣委細致承知候、於当地も通詞共相糺候処、御地ニ而申立候
  之通相違無之段別紙之通書付差出候間差進申侯、委細は右ニ而
  御承知可被成候、
  且又、当地江異国船相見候節は、前々より之仕来ニ而其節役々
  遠沖江差出、(走)込候彼船江乗附、何国之船何之為メ渡来之次
  第相尋候横文字之書簡相渡、返翰請取侯砌は、御役所附乗組候
  船江は赤地に柑子割之旗相用遠見番同断之船江は地白江紺ニ而
  筋違縞之旗相用侯義之旨、両役之者共江書付差出候ニ付、是又
  差進申侯、
  右ニ付於当方は御同意と申儀は勿論、通詞共申出候白地之旗改
  而用侯筋ニも難相成侯間、左様御承知可被成候、右御報旁可得
  御意如斯御座候、以上
    九月廿七日             伊沢美作守 印
      土岐丹波守様
      田中市郎右衛門様

 とあり、浦賀奉行からの問合せに対して、長崎表では従来の仕来りを
変えることは出来ないと回答してきている。
 これを受けて次のような文章が出されたのである。

「史料四」
  「辰十一月九日伊勢守殿江黒沢正助を以進達」(朱書)
   浦賀表江異国船渡来之節、船印之儀ニ付申上候書付
                      土岐丹波守
                      大久保因幡守
  浦賀表江異国船渡来之節、横文字諭書持参為乗留差出候一番船
  江相用候船印之儀、同所詰通詞申立候趣も御座候ニ付、白地四
  半幟船印ニ相用申度旨先達相伺候処、右幟相用候儀は見合、長
  崎奉行江掛合之上、於彼地も同意ニ候ハゝ猶又相伺可申旨被仰
  渡候ニ付、則、長崎奉行伊沢美作守江右伺書并御差図之趣を以
  及懸合候処、同人取調之上、通詞申立候趣は相違無御座候得共、
  於彼地は異国船相見江候得は其筋役々遠沖江差出、異船江乗付、
  横文字諭書相渡候砌は夫々仕来之船印相用候儀ニ付、白地之幟
  改而相用候筈ニは相成兼候趣答申越候、依而は浦賀表之儀も、
  白地四半幟相用候儀は見合候様可仕奉存候、此段申上置候、以
  上、
    辰十一月              土岐丹波守
                      大久保因幡守

 とあり、長崎表と違った仕法は見合わせとなったが、幕閣の関係者は
「白旗」が何を意味するかは知っていたのである。

 二〇〇四年六月            浦賀歴史研究会 調べ、

これ以上あえて何もつけ加える必要はないだろう。「ペリーの白旗問題」「高麗環文書真偽論争」はこれで決着。