『武揚伝』は、榎本武揚の前半生を扱った日本で(おそらく)最初の小説作品です。
五稜郭以降、明治政府に仕えてからの武揚を扱った作品はいくつかありますが、どれも前半生についてはほとんど触れられていません。
研究書でも、加茂儀一『榎本武揚』、井黒弥太郎『榎本武揚伝』など、どちらも前半生についての記述はほんの少し。
というのも、安政五年に武揚が築地軍艦操練所教授となるまでの人生については、
不明な点が多すぎるためです。
とくに、問題になっているのは3点。
わたしは、この3点について、小説中で自分の解釈を示しました(年譜参照)。
これについても、これまでは否定的な見方がほとんど。
加茂儀一氏は、武揚の過激な主張については「雅気である」と片づけていますし
井黒弥太郎氏に至っては、箱館戦争そのものを、「不穏分子を隔離するため」に、
武揚がはかった、いわば八百長の戦争という見方です(トンデモ説に近い、と思います)。
ご両氏とも、明治政権のもとでの武揚の功績を高く評価する立場、
「武揚は逆賊ではない」、ということを強調するあまり、
武揚の事績の中でも最も魅力的で輝いている部分を否定しているわけです。
わたしは、「武揚はまぎれもなく逆賊であった」と見ます。
朝廷・新政府に対して、彼は何度も嘆願書や声明を送っています。
「蝦夷地に自治を認めないのであれば、力づくでも頂戴する」
この主張は、どう読んでも、日本からの分離・独立の宣言です。
また、武揚はその自治州の政体のありようとして、
はっきりと共和制を志向していました。武揚の受けた教育や経験から、
その政体に共和制が選択されるのはごく自然です。
ですから、箱館にあったものは、まちがいなく共和国、あるいは
その萌芽の段階のコンミュンであったと言えます。
『武揚伝』は、いわばそれを証明する小説です。
現在の函館市民は、榎本武揚とその政権について、きわめて冷淡です。
その理由として、箱館戦争の際、榎本軍が箱館市街地を焼いたからだ、ということが
あちこちの文書で語られています。箱館市民は当時、これを「脱走火事」と呼んだとか。
ほんとうに、榎本軍に責任のある「大火」なるものはあったのか。
「函館市史」は、「脱走火事」なる大火があって、「民家八百戸が焼失」と記述したあと、
こう続けます。
「この大火のあとも町はなかなか復興できず、明治政府から明治六年まで
見舞金がくだされた」
しかし同誌は、明治五年にも函館では大火があったことを記しています。
大きな寺院が移転するほど(つまり都市計画が変わるほど)の規模であったそうです
(このときの被害戸数は記されていない)。
となると、明治六年まで下賜された見舞金というのは、五年の大火の
見舞金だと考えるほうが自然です。前年の大火のことはさておき、
明治二年の大火の見舞金が贈られ続けたとは思えません。
ただし、函館市民にとっては、戦争と大火の記憶は鮮烈だったでしょうから、
いつのまにか、見舞金は、明治二年の火事に対してのもの、と混乱して記憶されて
いったのではないでしょうか。見舞金だけではなくその規模についても、
このふたつの記憶の混乱があるとわたしは思います。
「脱走火事」について、通説では、榎本軍が明治2年5月11日、
弁天台場前の弁天町に火をつけたため、
これが燃え広がって大火となったのだ、ということになっています。
しかし箱館戦を、当事者の記録から精緻に分析した大山柏の記述では、
市内の「ところどころに火を失し、多くを焼く」となっています(「戊辰役戦史・下巻」、
大山柏は薩摩人だが、この研究書は戊辰戦争に関する史料を
最もよく渉猟していると思われる)。榎本軍による弁天町への放火への言及はありません。
箱館市内にあった榎本軍部隊は、新政府軍が箱館山裏手に上陸した時点で、
ただちに弁天台場と一本木柵のふたつの守備陣地に入っていますから、
わたしはこの「ところどころ」から上がった火の手は、
新政府軍の手による放火であると判断します。
また、新政府軍が箱館病院別館であった高龍寺へ放火したことははっきり
していますが、榎本軍の弁天町への放火を記す記録(「新開調記」など)には、
この高龍寺への放火のことは記されていません。
そもそもこれらの記録は、市民が目撃した事実をその時点で書いたものにしては、
妙に細部が詳細です。混乱の中で、たとえば船の名、地名、数字などが
明快に記されている。すでに勝敗が決して、
官軍側の見解ができたあとに作られた文書と考えるべきでしょう。
5月11日、榎本軍による弁天町への放火がもしあったとしても、
このときすでに弁天町は、連日の艦砲射撃で廃墟となっていたはずです。
榎本軍は、「民家八百戸の焼失」について(その規模が事実だとしても)、
そのすべてに責任があるわけではないと、わたしは考えます。
『武揚伝』では、勝海舟伝説に真っ向から異議を唱えました。
わたしの目に映る勝海舟の姿は、つぎのようなものです。
海軍創設の功労者ではない。
長崎海軍伝習所を二回留年して、けっきょく卒業しておらず、
学業成績は蘭語以外は不出来。学業態度は不真面目で、実習はさぼり続けた。
ただし、政治的なセンスがあり、権力者に取り入るのがうまく、
みずからを「海軍の実力者」とプロデュースする力があった。
咸臨丸の艦長となったときは、その無能ぶりと人格の幼さが暴露され、
さすがに幕府も彼を更迭せざるをえなかった。
軍艦奉行に任じられたときは、伝習所の同期生や咸臨丸同乗者たちに忌避され、
何人もの優秀な人物が、幕府海軍を離れている。
そのあとまた海軍を追われるが、薩摩とのコネクションがあったために
交渉役としてふたたび軍艦奉行に任じられている。
以降は、勝は徳川幕府を終わらせるために献身してゆくことになる。
艶福家というよりは、きわめて女癖の悪い人物。
使用人に片っ端から手をつけた。子供を産ませた、とわかっている
女だけで四人。長崎海軍伝習所時代にも、妾を持っていた。
総じて言って、なんでこんな人物が偉人扱いされているのか、という印象です。
もちろん、官軍側史観では、まちがいなく維新の功労者でしょうが。
『武揚伝』の中には、ふたつの歌が登場して、登場人物たちによって
何度か唄われます。
ひとつは、『ヒップス造船所の造船工の歌』
もうひとつは『ラ・マルセイエーズ』
前者は、メロディはわかりませんが(注)、歌詞は記録に残っています。
『武揚伝』の前半の大事なシーンのひとつ、開陽丸の進水式の場面では
前者が唄われ、
後半のクライマックス(五稜郭攻防戦前夜とラスト)では、後者が唄われます。
注; 最近、この歌はオランダ国歌の替え歌、という記述を発見。
とすると、メロディはオランダ国歌のものそのまま、ということになります。
『ラ・マルセイエーズ』(フランス国歌)がどうして『武揚伝』で使われるのか、
というと、この歌が、フランス国歌であるよりもまず、共和制の讃歌、であるからです。
映画『カサブランカ』のクライマックスでは、この歌はアンチ・ファシズムの歌、
デモクラシーの勝利を願う歌、として使われていました。
なにより、五稜郭にはフランスの軍事顧問団がいて、
兵士たちを洋式に訓練していたのですから、
共和国建国のために戦う男たちによって『ラ・マルセイエーズ』が唄われるのは、
けっして不自然ではありません。