孝明天皇の毒殺は、すでに医学的に決着済みの事実である。
孝明天皇の死亡は、慶応2年12月25日(1867年1月30日)である。
公武合体派の孝明天皇の突然死により、岩倉具視、大久保利通らの王政復古派は勢いづき、
今日では偽文書とされる「倒幕の密勅」を、新天皇の名で薩摩・長州に対して発した。
以降、事態は朝廷側対幕府側との全面対決へと急展開してゆく。
孝明天皇の突然死については、早くから毒殺だと語られてきた。
しかしこれに関して、明治政府側から書かれた研究書や小説は一切触れることはない。
「毒殺説もある」と記してあるものは、むしろ良心的な部類である。
孝明天皇の毒殺については、医学的には決着がついたことである。
孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順(おりべのかみみつおき)の当時の日記とメモが
光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発見され、その中身が
昭和50年から52年にかけ、「滋賀県医師会報」に発表された。
『天脈拝診日記』と題された、日記とメモの解読報告である。
光孝氏は、記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたときの
容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。
さらに光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て、こう記したという。
「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために、
痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を混入した、という推理がなりたつ」
伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員・成沢邦正氏、
同・石井孝氏、さらに法医学者・西丸與一氏らは、その猛毒について、
砒素(亜砒酸)だと断定している。
当時の宮中では、医師が天皇に直接薬を服用させることはできなかった。
必ず、女官に渡して、女官から飲ませてもらうのだという。
前述石井孝氏は、女官たちの中で容疑者と目される者の名を、
つぎのように挙げている。
岩倉具視の実の妹、堀可紀子。
匂当内侍だった高野房子。
中御門経之の娘で典侍だった良子。
孝明天皇の死の最大の受益者は誰かということと、状況証拠から、黒幕は明らかである。
上記の事実について、要約された記述としては『戊辰戦争』佐々木克、中公新書、昭和52年刊が
入手しやすい
その後の研究成果をまとめたものとしては、『諸君!』99年2月号、『孝明天皇は亜砒酸で殺された』
という中村彰彦氏の論考が詳しい。