天下城ノート2  長篠の合戦についての考察

近年、長篠の合戦についての通説の誤りが指摘され、
新しい常識ができつつある。

代表的なところでは。

  1. 信長・家康連合軍の鉄砲「3千挺」という数字は誤り。せいぜい1千。
  2. 鉄砲の3段撃ちも、一斉射撃もなかった。
  3. 武田には、いわゆる騎馬隊(兵種としての騎兵隊)は存在しない。
  4. 兵力も、連合軍3万8千、武田1万5千はおおげさ。
    せいぜい連合軍1万5千〜2万5千、対、武田7千から1万。

わたしも、戦場の設楽ケ原を見て、つぎのように考える。

1、総兵力は、やはり近年示されている数字のほうが近いだろう。
設楽ケ原現地は、合計5万以上の軍勢が展開できる広さには見えない。

武田側が鶴翼の陣を布いたのはよいとして、連合軍も鶴翼の陣を布いたとする
記述があるが、誤りだろう(後述、この戦闘の性格の認識のちがいであるが)。
現地には連合軍側(たとえ1万5千だったとしても)が、鶴翼の陣を布けるような空間はない。
地形を無視して部隊配置だけ見ると、前衛の部隊は左右に広がって置かれているので、
鶴翼の陣と見えないこともない。でも馬防柵(簡易城壁)のうしろに
前衛部隊を並べるのを、鶴翼の陣とは呼ばないだろう。

2、記録は、戦闘が8時間続いたとする。
夜明けと同時に始まり、午後2時ころ終わったと。
これがもし6時間だったとしても、最後の2時間は追撃戦であったはず。
午後2時ころの戦闘終了というのは、武田勢の完全な退却を確認した後、
連合軍が勝鬨を挙げた時刻であったろう。
つまり、設楽ケ原馬防柵の前での戦闘は、4時間前後、と推定できる。

たとえ4時間の戦闘だったとしても(これでもかなり長い)、
そのあいだ、武田は繰り返し連合軍に攻撃をしかけたということになる。
ということは、つまり、鉄砲の一斉射撃による連合軍の一方的な勝利、
という様相ではなかったと想像できる。
武田は、じりじりと消耗した後、戦闘の最終段階で総崩れとなったのだろう。
兵力比を考えると、それまでむしろ武田は善戦している。

3、合戦の性質も、野戦ではなく、じつは城砦攻防戦だったのではないか。
連合軍が布いた陣は、設楽ケ原の旧防衛線を生かしたかなり本格的な砦と見える
(設楽ケ原は、その数年、徳川方菅原氏の所領の東端、つまり徳川方最前線として整備されていた)。
馬防柵の背後はすぐに、わりあい急斜面の丘陵である。
というより、防衛線は丘の斜面の下端近くに作られている。天然の斜面が土居代わりである。
柵のすぐ前(下)が連子川。
連合軍は、この防衛ラインを築くにあたって、すでに存在した切岸や土居も
利用していたというから、この馬防柵前の戦闘は、城砦攻防戦の様相であったと思える。

4、設楽ケ原戦の戦闘のさなかに、鳶ケ巣城攻防戦があり、ここで連合軍は
長篠城の包囲を打ち破った。連合軍はこちらの戦いに、1千挺の鉄砲のうち
5百を投入している。長篠戦の最重要な戦闘はこの部分であった。
ただし、歴史的な「長篠戦のハイライト」は、武田の滅亡を決定づけたという意味で、
設楽ケ原の馬防柵前の戦闘となったが。

設楽ケ原平面概念図(図上が北)

設楽ケ原平面概念図

Aは一重の馬防柵、Bは三重の馬防柵

上図の連子川から、馬防柵(三重)を間にして、左手の丘とのあいだに、
平坦地はほとんどない。この空間に、連合軍の全軍が布陣したとは考えられない。
丘の斜面上に長時間立って待機することも無理だろう。
馬防柵に取りついていたのは、前衛(前面防衛)部隊のみで、
予備兵力は、丘の背後の一重の馬防柵のうしろにあった、と考えるのが自然である。

ただし、徳川勢の多くが陣取ったのは、丘が切れるあたりの平坦地。
徳川勢はこの空間に密集していたことだろう。

設楽ケ原断面図

設楽ケ原断面図

   大宮川          連子川

高低差を5倍くらいに拡大して示すと、設楽ケ原の典型的な断面はこのような形状である。
左手(西側)に南北に延びる丘陵。こちら側に陣取ったのが、織田・徳川連合軍。
右手は、やはり南北に延びる丘陵だが、斜面の勾配はゆるやか。こちらには武田勢。

谷間の西寄りに、連子(連吾)川。この川の中心が、信玄の時代、徳川方と武田方との境界。
馬防柵は、連子川のすぐ西側に設けられた。

谷の底は、幅100メートルから150メートルほどの平坦地。
その平坦地は次第に緩い勾配がついて、武田側の陣取る丘となる。

武田側からだと、連合軍の陣は、きわめて薄いものに見えたはずである。
馬防柵はあるが、そのうしろにいる将兵の数はさほどとは見えない。
柵の隙間から一隊でも向こう側に突入した場合、連合軍の陣は崩れて、
戦闘は決着がつく、と想像できたのではないだろうか。

巷間言われているように、たとえ勝頼に人望がなく、武田側の武将に厭戦気分があったとしても、
いくらなんでも、明らかに兵力に優る敵軍へ、無謀な突撃を繰り返すはずがない。
武田の側からは、この布陣が十分勝算のあるものと見えたのだ。