戦国の合戦の様相について、鈴木真哉氏の研究・分析などを筆頭に、
新たな解釈が生まれている。
これまでの、いかにも「講談的な」合戦のイメージが、より真実らしいと感じられる
ものに変わりつつあるようで、このこと自体は、わたしは歓迎する。
とくに、長篠の合戦については、
という解釈が定着するようであり、今後は通説によりかかった解説や
小説・映像の描写もなくなることだろう。
ただし、これらの動きと一緒に「戦国時代の合戦では、馬はろくに使われていなかった」
という説が、新しい通説になりつつあるようだ。これには、わたしは首をかしげる。
というのも、騎馬戦否定論者の大部分が、まず基本的に馬を知らない、と思えるためだ。
馬について、根幹のところでの無知か、あるいは馬を誤解しているから、このような説が
力を得てきているように感じられる。
通説の代表を整理すると、つぎのようなことになるだろうか。
「騎馬兵はたしかにいたが、それほど大勢いたわけではないし、今日のポニー程度の
ちっぽけな、蹄鉄も打っていないような馬に乗った連中を寄せ集めてみたところで、
近代ヨーロッパの騎兵のような密集突撃など、できるものではない。
そもそもそういう訓練をしていた形跡さえ見当たらないのである」
「小さな馬が重たい鎧武者を乗せて、三々五々トコトコと攻めかかっていった
ところで、いったいどういう効果が期待できたのだろう」
(両文とも鈴木真哉氏)
以下の文章は、具体的には、多くは鈴木真哉氏に対する反論のかたちを
とるかもしれないが、他意はない。まとまったかたちではっきりと
騎馬戦を否定しているのが、鈴木氏だから、ということである。
この問題以外についての鈴木氏の論考には、わたしは大いに賛同し共感するものである。
日本の馬のサイズについて、多くの論考が、120センチ平均、と記す。
その根拠は、記録に残る馬のサイズの表記のしかただ。
「三寸五分」とか「四寸」と書き表されるのだが、これは「四尺」を省略して、
サイズを語ったものである。
三寸五分とあれば、四尺三寸五分だから、つまり143.5センチということになる。
「四尺」が省略されるから、日本の馬の平均体高は120センチだ、と研究者は言うのだが、
120センチが平均であれば、個体差はその上下に均等に分布するはずである。
「四尺」を省略して、サイズを表すことは不可能だ。
つまり、「四尺」を省略する表記法からわかるのは、日本の馬のサイズは
四尺と五尺とのあいだに収まっていた、ということだ。
120センチ平均だった、とは、絶対に解釈不能である。
生物学的には、現在の和種馬の平均体高は130センチである。
これは数世紀かけて小型化されてきた結果と考えられている。
駄馬としては、小型の馬のほうが使いやすいのだ。
戦国期は、おそらく135センチほどの平均体高であったはずである。
鈴木氏は、戦国の馬の体高を130センチ弱と考えているようである。
ちなみに、和種馬と血統的に近いと考えられている蒙古馬は、平均135センチ。
鈴木氏は書く。
「源平時代の代表的な名馬である『生食(いけずき)』にしても、体高約145センチに
すぎなかったし、源義経の乗った『青海波』は、142センチであった。
(中略)こんな小さな馬が重武装の兵士を乗せて駆け回れたものかどうかはなはだ疑問」
先に記したように、蒙古馬の平均体高は135センチ。
ジンギスカンの軍隊は、この馬でユーラシアを疾駆し、征服したのである。
142センチ、あるいは145センチの馬であれば、戦闘用馬としては
十分すぎるほどのサイズである。
鈴木氏も、おおかたの日本人も、サラブレッドを馬の標準サイズと誤解している。
160から165センチのサラブレッドから見れば、145センチはたしかに小格馬であり、
ポニー(148センチ以下)に分類される。
しかし、たとえばアメリカの西部で使われていた馬だって、大部分はポニー・サイズ。
ポニーサイズの馬が、カウボーイを乗せて走るのである。
ポニー・エクスプレスという、「早馬」の使用を売りものにした有名な私設郵便制度もあった。
ここでは「ポニー」とは、ふつうの日本人がイメージするような、非力で鈍重な馬、の
ことではない。それは俊敏で活発な馬の代名詞だ。
わたしの飼っているテキサス産のクォーターホースも、140センチ。
これで、小さすぎるということはない。
戦国期、日本の馬が宣教師たちに「ポニー」と呼ばれた、ということで、
たぶん鈴木氏はじめおおかたの戦国研究者は、観光牧場にいる
シェトランド・ポニー(105センチ)とか、ウェリッシュ・ポニー(120センチ前後)を
連想している。じっさいの135センチから145センチの馬をイメージできていないのだ。
また、鈴木氏は書く。
「NHKが歴史番組制作にあたって実験してみたことがある。中世の馬と同じ
体高130センチ、体重350キログラムの馬に、体重50キログラムの乗員と、
甲冑相当分45キロの砂袋を乗せて走らせたところ、分速150メートル出すのが
やっとで、しかも10分くらいでへばってしまったという。旧陸軍の基準では、
速く走る駆歩(ギャロップ)は分速310メートル(中略)、はるかに劣っている」
(注、正確には、駆歩はギャロップではなくキャンター。ギャロップなら襲歩である。
この実験では、どちらの歩様を出したのだろう?
鈴木氏は、馬の歩様の違いを知らずにこれを記述しているようである。
もっとも馬の歩様については「広辞苑」も違いを理解していないのだけれど)
さて、鈴木氏はここでも、競馬を想定して話を進めているのではないか。
戦場でもし馬がギャロップになるとしたら、それは長くとも
弓・鉄砲の射程外(300メートルほどということになるか)から、
敵に向かってゆく場面だろう。
わたしはギャロップで1500メートル、あるいは10分間走らねばならぬ戦場の状況を、
想像できない。それをするのは、後述する母衣衆の馬くらいである。
戦場の馬は、1600メートルとか2000メートルの距離を全力疾走できる必要はないのだ。
NHKがやったというこの実験も、奇妙だ。その馬は、ふだんギャロップや長距離走が
できるよう、訓練されていたのか? 今日でも、エンデュランス競技に出る馬は、
そのためのトレーニングを受ける。
別の問題になるが、甲冑の重さ45キロ、というのも、どんなものか。
今日に伝わっている甲冑がじっさいにそのような重さだったとしても、
身動きもままならぬような甲冑を、ほんとうに戦闘要員が身につけたのだろうか。
馬装のほうは、行軍から戦闘に移るときは、さっと紐を解いて、仰々しい飾りを
捨てたのだ。
最初のパラグラフで記した鈴木氏の記述をまた引用する。
「小さな馬が重たい鎧武者を乗せて、三々五々トコトコと攻めかかっていった
ところで、いったいどういう効果が期待できたのだろう」
鈴木氏は、日本の馬は武士を乗せては走ることもできなかった、
という思い込みが強いようだ。
繰り返すけれども、おおかたの日本人の頭には、シェトランド・ポニーあたりが、
重装備の武士を乗せて、不格好に歩いている様子しかイメージされていないのだろう。
しかし、多くの戦国武将たちは、直属の伝令要員として、
母衣(ほろ)衆という男たちをそばに置いていた。
彼らは、背中に吹き流しのような母衣と呼ばれる飾りをつけていた。
母衣の形はいろいろだが、いずれも走っていなければ形にならない形だった。
だから静止しているときも一応の形になるよう、吹き流しの中に竹ひごの骨を
入れたような母衣も使われていた。
しかしそれだって、やはり走っていないことには背中からだらりと垂れ下がって
格好よくは見えない。母衣衆の衣装は、少なくとも彼らの馬が駆歩することを
想定して、形を整えられていたのである。
逆に言うなら、日本の馬は戦場を疾駆していたのだ。その一番典型的な
姿が、母衣を大きくはらませて走る母衣衆である。
たしかに戦国時代の戦闘単位はおおむね「家」であって、兵種ごとの部隊ではない。
また馬に乗るのはだいたい、家の主人であり、指揮官だった。
一般的には、専門職としての騎兵が乗るわけではない。
だから、武田軍に騎馬軍団なるものはなかった、というのは正しいと思うし、
ほかの戦国武将のもとにも、近代西洋の騎兵隊的な意味での騎兵部隊は
存在しなかったろう。
でも、騎馬武者主体の用兵はありえなかったか?
前述したように、戦国武将はたいがい、伝令部隊としての母衣衆をそばに
置いていた。信長の場合であれば、赤母衣衆と黒母衣衆の2部隊があった。
これは、「家」とは完全に別個に、総司令官のもとに組織された騎馬武者中心の部隊である
(伝令が任務だから、部隊にクツワ取りは所属していても、足軽はいなかったろう)。
つまり、戦国時代には独立した騎馬武者部隊は存在しなかった、という主張は
そもそも成立しないのだ。
だから日本の戦国時代には、
騎馬部隊を大規模に、あるいは徹底して使う、という発想がなかっただけである。
しかし、小規模には使われたろう。
騎馬武者部隊が組織されていない小規模な軍勢でも、乱戦、混戦の中で、
騎馬武者たち、あるいは騎馬の指揮官クラスが
3頭から10数頭ぐらいまで固まって、密集突撃を敢行するぐらいのことは十分に
あったと考えられる。
日本の馬も、それに使える程度のサイズであったのだし、何より馬による突進は、
効果的である。デモ隊に装甲車を突っ込ませるようなものだ。
その効果がわかっていて、騎馬武者たちがこの戦法を使わなかったはずはない。
史料にも、それを裏づける記述(乗り入れ、とか、乗り込み、とか)はよく出てくるが、
鈴木氏はこれを、決まり文句による実態のない描写として片づける。
シェトランド・ポニーを前提に突撃の情景を想像すると、非現実的であり、史料のほうを
否定したくなるだろう。しかし、日本の馬は、シェトランド・ポニーとはちがうのだ。
鈴木氏が、142センチや145センチの馬と聞いて、ほう案外大きいじゃないか、と
感じ取れるだけ馬を知っていたら、このような説は出さなかったはずである。
鈴木氏のもう一文。
「騎馬兵はたしかにいたが、それほど大勢いたわけではないし、今日のポニー程度の
ちっぽけな、蹄鉄も打っていないような馬に乗った連中を寄せ集めてみたところで、
近代ヨーロッパの騎兵のような密集突撃など、できるものではない。
そもそもそういう訓練をしていた形跡さえ見当たらないのである」
サイズの問題は解決ずみ。
もうひとつ。
なるほど、日本の馬文化には、16世紀でも蹄鉄を打つ習慣(技術)はなかった。
しかし、日本のように湿潤で、国土のどこにも乾いた砂礫の土地とか、
石畳の道などないところで使うには、なしでも間に合う。
蹄鉄を打っていないから、使いものにならない、とはならない。
訓練していない? その形跡も見当たらない?
『信長公記』巻14にこういう記述がある。信長の天正9年の都での馬揃え
(軍事パレード)のあとの、騎馬用兵を公卿たちに披露したときの記事だ。
(現代語訳は佐々木)
「最初は十五騎ひと組として、ひと組ずつ馬場に入れたけれども、
広い場所なので、次は三組四組づつひとつにして、
入れ違い入れ違いで隙間なく馬を動かして、べつの馬にぶち当たらぬように
馬場の中を縦横無尽に乗り回した…」
これは、騎馬の指揮官クラスだけを集めたという話ではないだろう。
独立した騎馬武者部隊として、信長の指揮のもとに動いている部隊の、
馬術の披露の場面、と読める。
この描写に、わたしはウィーンのスペイン乗馬学校の馬術や
フランス国立乗馬学校の騎兵の演練の様子を連想してしまう。
これほどまでに精緻に馬を動かすことのできた独立騎馬武者部隊(お家選抜かも
しれない)があったのに、でもそれは戦場では使われなかった?
そんなことはあるまい。
(注、『信長公記』巻14には、馬にまつわる記述が多い。
信長が安土城下に整備された馬場を築造したこと。
矢代勝介という馬術家を召し抱えたこと、
信長が先頭になり、爆竹を鳴らして乗馬の練習を行ったことなど、が記されている。
鈴木氏の「訓練の形跡さえ見当たらない」という認識は、どこからくるものなのだろう)
軍記物や講談の騎馬戦の描写と、史料に於ける騎馬用兵の記述は、
厳密に区別して考えるべきである。
その結果としても、わたしは、戦国時代には馬は戦闘には使われていなかった、
という主張には賛同できない。
黒沢明『影武者』に於ける長篠戦の武田騎馬部隊の突撃シーンは、絵空事だ。同意する。
でも、戦場で馬が使われなかったという説も、また虚構と考える。
(注、だからといって、わたしは日本には高度な馬の文化があった、と主張している
わけでもない。むしろ、思いは逆である)。