『武揚伝』初刷りには、お恥ずかしいばかりの誤植がありました。お詫びいたします。
ひとことで言うならば、日本の近代化のひとつの理想を
「共和国樹立」というかたちで示した男。
幕末期の幕臣。
長崎海軍伝習所で学び、そののちオランダに留学した。
蒸気機関学、機械工学の専門家。技術者。
開陽丸で帰国後、徳川海軍の事実上の司令官。
戊辰戦争では、強硬に抗戦を主張、
徳川慶喜の恭順後、艦隊を率いて蝦夷ガ島に脱出した。
選挙で蝦夷地政権の総裁に選ばれたが、
新政府軍と戦って敗れ、降伏・投降、
後に「罪」を赦されて、明治政府のもとで外交官、技術官僚として働いた。
皇国史観では賊徒であり、徳川側からは、
二君に仕えた変節漢呼ばわりされている。
彼が樹立した共和国についても、
「まぼろし」と決めつける説がほとんど。
わたしの考えでは、日本近代史の中でその評価があまりにも
ゆがめられている人物である。
ひとを理系と文系とで分けてもよいとすれば、
武揚は、明快に理系である。
自然科学に強く、技術を好んだ。
思考態度も、きわめて合理性をたっとぶほう。
おそらくは遺伝的な資質のせいである。
父親の榎本円兵衛は、数学を学び、天文学、測地学を修めた技術者。
伊能忠敬の弟子のひとりである。
武揚は語学にも才能があり、オランダ語、英語、フランス語に堪能だった。
江戸脱出から五稜郭での降伏まで、
ものごとの節目節目で声明(フランス語の文書を含め)を発表して、
そのつどみずからの信念や政策を明らかにしている。
日本の指導者には珍しく、言葉(論理)の使い手であり、
逆に言えば、腹芸を嫌悪する人物だった。
また、直情で一本気な江戸っ子だった。
下谷御徒町生まれということが、影響しているのかもしれない。
母親、姉、妻などとは、当時の日本人男児には珍しいほどの、
細やかな愛情の行き交いを持ち続けた。
幕末・明治期の著名人の中では、例外的に女遊びをしなかった人物だという。
この点は女癖の悪さで知られた勝海舟とは対照的。
明治政府での働きぶりをして、変節して栄達を求めた、とする見方が多い。
しかし武揚は、ヨーロッパ的「契約」の概念を知っていた男であり、
基本的な人間のタイプも非・政治的な技術者である。
また技術者らしい実際的な思考法をとる男であった。
だから武揚は、権力・権勢を求めて明治政府に仕えたのではなく、
自分の専門能力を高く買ってもらって働いただけと見るべきである。
外交センスと、技術への造詣の深さについて、
同時代人としてはほかに匹敵する者はいなかった。
武揚は、新政府が直面する問題の「現場」に出向いては、
みずからの専門性を生かしてその解決にあたったのである。
福沢諭吉が、勝海舟と武揚に対して、
やせがまんの記、という公開書簡を送った話は有名。
幕臣だったなら、やせがまんしても明治政府には距離を置け、というものである。
勝は、他人の評価は気にしない、という意味の回答をしたが、
武揚は、「諸事多忙につき」と、返答しなかった。
ちなみに、福沢諭吉は幕府による二度目の海外派遣のとき、
多額の公費の使い込み事件を起こし、謹慎を命じられている。
あまり声高にひとのモラルを攻撃できる人物ではないと思うのだが。
勝海舟とちがい、武揚は回想録等は残していない。
彼の前半生の事績に不明な点が多いのはそのためである。
前半生、五稜郭での降伏まで。
作成・佐々木譲。
諸説ある部分については、佐々木の判断を示した
1836年 | 天保7年 | 満0歳 | 江戸・下谷御徒町に、御家人・榎本円兵衛の次男として生まれる 通称は釜次郎 |
1842年 | 天保13年 | 6歳 | 漢学者・田辺石庵のもとで読み書きを習いはじめる |
1848年 | 嘉永元年 | 12歳 | 湯島の昌平坂学問所に入学、儒学を学ぶ |
1851年 | 嘉永4年 | 15歳 | 本所の江川太郎左衛門塾(英龍塾)で蘭語を学びはじめる |
1852年 | 嘉永5年 | 16歳 | 学問吟味(幕府国家公務員試験)で丙の成績(官吏には登用されない) |
1853年 | 嘉永6年 | 17歳 | ペリー来航、引き続き英龍塾で蘭語を学ぶ |
1854年 | 安政元年 | 18歳 | ペリー再来航、武揚、箱館奉行・堀織部正の従者として蝦夷地をまわる ジョン万次郎について英語を学びはじめる |
1855年 | 安政2年 | 19歳 | 長崎海軍伝習所に員外聴講生として入学 |
1856年 | 安政3年 | 20歳 | 長崎海軍伝習所で学ぶ(蒸気機関担当、火夫) |
1857年 | 安政4年 | 21歳 | 長崎海軍伝習所二期の正規伝習生となる 蒸気機関学、造船学、物理、化学等を学ぶ |
1858年 | 安政5年 | 22歳 | 築地軍艦操練所教授となる |
1860年 | 万延元年 | 24歳 | 咸臨丸、アメリカへ。武揚は乗組をはずされる。艦長は勝海舟 |
1861年 | 文久元年 | 25歳 | アメリカ留学の内定が出るが、南北戦争勃発で中止 |
1862年 | 文久2年 | 26歳 | 幕府留学生として、オランダに派遣される |
1863年 | 文久3年 | 27歳 | ハーグで蒸気機関学ほかを学びはじめる |
1864年 | 元治元年 | 28歳 | 観戦武官として、デンマーク−プロシア・オーストリア戦争を体験する |
1865年 | 慶応元年 | 29歳 | フランス語と国際法を学ぶ |
1867年 | 慶応3年 | 31歳 | 新造の軍艦・開陽丸で帰国、開陽丸艦長となる オランダ留学生のひとり、林研海の妹たつと結婚 |
1868年 | 慶応四年 明治元年 |
32歳 | 戊辰戦争が勃発 紀淡海峡海戦、二条城・大坂城での評定、 慶喜脱出後の大坂城の残務処理などを通じ、 軍人として急速に頭角を現す 江戸に帰った後、徳川海軍の副総裁となる 8月、艦隊を率いて仙台に脱走、 さらに奥羽越諸藩の脱藩部隊を糾合して蝦夷地にわたる 箱館に自治州政府を置いて新政府と対峙 |
1869年 | 明治2年 | 33歳 | 5月、新政府軍との激戦の末に降伏 |
1872年 | 明治5年 | 36歳 | 釈放される |
1908年 | 明治41年 | 72歳 | 没 |
年齢は、必ずしも右の記述のときとは対応していない。
武揚は8月生まれなので、たとえば五稜郭での降伏のとき(5月)は、
正確には満32歳である。
榎本武揚を評価するということは、明治維新を根源から問い直すということと同じである。
明治維新について、「国民史観」で記せば、こうなる。
「それは、日本がアジアで最初に近代化に踏み切ってこれを成功させるための、
前提条件であった。それまでの幕藩体制に代わって王政を復古させ、
天皇をトップにいただく中央集権国家を作ることで、近代化を上から強力に推し進めねばならなかった。
明治新政府は、統治権を確立した後、欧米列強にならった軍事大国路線、植民地拡大路線を取ることで、
日本の植民地化を防ぎ、その後の繁栄の基礎を築いたのである」
ほんとうにそうだろうか。
疑問の1、明治新政府に、政権としての正統性はあるか?
これについては、孝明天皇の毒殺によって王政復古が実現されていったことを考えれば、
はっきりと、ノー、である。
先帝殺しによって生まれた政権が、正統性を持つわけがない。
武揚がそんな政権から「賊」と決めつけられる理由はないのだ。
武揚は、不法・不当に政権を簒奪した者たちに対する、断固たる政治的反対派である。
疑問の2、天皇制中央集権、軍事大国、植民地拡大路線は、近代化の唯一の道だったろうか。
ノーである。
客観的に考えて、日本が植民地化する可能性はきわめて少なかった。
中央集権国家である必要はなかった。ましてや、軍事大国路線・植民地拡大路線は、むしろ
採るべきではなかった道。行き着く先が、あの中国侵略と太平洋戦争であったのだから。
ここで、榎本武揚の描いた共和国構想が意味を持ってくる。
彼は蝦夷地に、オランダ的な通商立国を構想した。
その国家政体は、共和制である。自由で平等な市民によって構成される共和政体こそが
その国家の繁栄の基礎であると認識していた。
蝦夷地には、朝鮮や中国からも多く移民を受け入れようと考えていた。
「神国日本」「大和民族は選ばれた民」といった選民意識は持っていなかったし、
「民族的純血主義」とも無縁だった。
それは、理想主義というよりは、技術者的な実利主義、合理主義から発想された
国づくり構想であった。
榎本武揚は、日本が近代化するにあたって、その道筋と目標について、
きわめて魅力ある答をひとつ提示してくれたのである。