武揚が樹立した共和国政権は、武揚がその人生でつちかってきた
人間的紐帯の結実である。
詳しくみてゆこう(複数の場所に出てくる名もある)。
英龍塾(江川太郎左衛門塾)の同窓生
沢太郎左衛門(開拓奉行)
大鳥圭介(陸軍奉行)
ちなみに、英龍塾での武揚たちの英語の講師は、ジョン万次郎である。
堀織部正、蝦夷地巡察組
雑賀孫六郎(開拓奉行並、会津藩士)
長崎海軍伝習所の同窓生
矢田堀景蔵(徳川艦隊司令官、一期生、彼は昌平坂学問所の先輩にもあたる。
ただし蝦夷地には同行しなかった)。
中島三郎助(箱館奉行並、開陽丸機関長、一期生)
松岡盤吉(蟠龍艦長、二期生)、
上田寅吉(開陽丸船匠長、一期生)
根津勢吉(二代目回天艦長、三期生)
沢太郎左衛門(開拓奉行、開陽丸副艦長、三期生)
小杉雅之進(江差奉行並、三期生)
築地軍艦操練所の生徒たち
荒井郁之助(海軍奉行、一期生)
甲賀源吾(回天艦長、二期生)
伊藤征二郎(開陽丸航海士、咸臨丸乗組の経験も。二期生)
オランダ留学生
沢太郎左衛門(開拓奉行)
上田寅吉(開陽丸船匠長)
古川庄八(開陽丸水夫長)
西周助(法学者、ブレーンのひとり、蝦夷地には同行しない)、
津田真一郎(法学者、ブレーンのひとり、蝦夷地には同行しない)
大坂城撤退時の混乱を体験した面々
土方歳三(陸軍奉行並、新撰組副長)
伊庭八郎(遊撃隊)
人見勝太郎(遊撃隊)
雑賀孫六郎(会津藩士)
大政奉還後に抗戦を主張して慶喜の不興を買った面々
松平太郎(副総裁)、
大鳥圭介(陸軍奉行)
永井玄蕃(箱館奉行)
ほか多数。
このように見てくると、武揚は人生のどの場面でも、
後に生死を分かちあえるだけの友人や同志を得ていることがわかる。
それらの友人、同志たちが、最後は五稜郭に結集したのである。
結集した面々の経歴を見ると、
その多くに、蘭学を学ぶか、外国経験があるか、
幕府のもっとも先進的な技術教育を受けた、という共通項がある。
土方歳三、雑賀孫六郎、人見勝太郎、伊庭八郎ほか、
古いタイプのサムライも少なくない。
徳川幕府末期の最優秀の知性と、古いけれども骨のある男たちが
共和国には集まったのだった。ドリームチームである。
長崎海軍伝習所の一期入所生で、武揚のいちおう先輩(ただし、
伝習所を二度留年して卒業しておらず、
武揚と先輩後輩という序列関係は持っていない)。
口だけの人物であり、海軍内部ではまるで人望がない。
長崎時代に薩摩コネクションを作り、後にこれを生かして
混乱の中で徳川家臣代表という立場を手に入れてゆく。
徳川処分をめぐって、榎本武揚と決定的に対立する。
もと新撰組の副長。
鳥羽・伏見の戦いから、箱館戦争の最後の局面まで、
戊辰戦争の全過程を文字どおり最前線で戦った男。
武揚とは、大坂城の大評定の場で知り合い、
後に仙台で武揚に合流する。
榎本政権の陸軍奉行並。五稜郭の降伏直前、敵陣営を急襲した際に戦死。
武揚の親友のひとり。英龍塾の同窓生。
英龍塾時代にオランダの軍事関連のマニュアルをいくつも翻訳し、
みずから活字の鋳造を指導して、活版印刷している。
後に幕府陸軍の将校となり、伝習隊を率いて江戸を脱走する。
仙台で武揚と合流、蝦夷地に移る。榎本政権では陸軍奉行。
いくらかハードウェア志向の陽性の軍人。
浦賀奉行所与力で、日本人として最初に黒船に乗り込んだひとり。
その後、長崎海軍伝習所で学び、武揚のよき叔父がわりとなる。
勝が軍艦奉行となったとき海軍を辞めて浦賀奉行所にもどるが、
武揚の帰国を聞いて海軍に復帰する。開陽丸機関長。
箱館では千代ガ岱陣屋の守備を指揮し、息子ふたりとともにここで戦死。
武揚の大親友。英龍塾の同窓生であり、長崎海軍伝習所でも一期ちがい。
オランダ留学も武揚と一緒だった。温厚で生真面目な秀才。
開陽丸の副艦長となる。蝦夷地では、開拓奉行の職に就いた。
つねに武揚の脇で武揚を静かに支える男。
仙台藩の知識人。ポーハタン号でワシントンにおもむいた日本人のひとり。
ペリーとの開国交渉では、応接係団長である林大学頭復斎の補佐係であった。
共和主義者であり、奥羽越列藩同盟のオルガナイザーのひとり。
仙台藩降伏後、武揚に合流する予定であったが、軟禁からの脱出が一日遅れ、
仙台藩恭順派に捕らえられて切腹となる。
青年時代の武揚の親友。上級旗本伊沢美作守政義の息子。
昌平坂学問所の同級生。武揚と共に長崎海軍伝習所で学ぶ。
海軍に勤めるが、勝を忌避して海軍を離れる。
保守的な家で育った青年であるため、箱館行きには参加しない。
白人との混血の娘。長崎時代の武揚の恋人。
武揚と別れた後、バタビア経由でヨーロッパにわたった。
開陽丸オランダ出航の前夜、武揚と再会する。
武揚の妻。オランダ留学生・林研海の妹。
武揚は、林研海に勧められて、帰国後たつと見合いし、結婚した。
榎本軍に雇われたフランス軍事顧問団のうちのふたり。
上官であるブリュネ大尉らは、五稜郭決戦の前にフランス皇帝の命で
五稜郭を退去するが、このふたりはブリュネの命に従わず
義勇兵として残った。