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『天下城』ノート
安土城天主復元案をめぐる考察 (02/05/26)

安土城天主については、いくつもの復元案が発表されている

織田信長の築いた安土城は、1582年、本能寺の変の直後、謎の出火により焼失した。
この焼失した安土城の天主のかたちをめぐっては、何人もの研究者によって
さまざまな復元案が提起されている。
代表的なものとして挙げられるのは、
内藤昌案、宮上茂隆案、兵頭与一郎案、西ケ谷恭弘案、森俊弘案ほかである。

復元にあたっては、どの案の提案者も、つぎの基本的な資料および
事実に拠っているはずである。

織田信長の右筆、太田牛一の記した『安土日記』(『信長記』)
フロイス『日本史』ほか、イエズス会宣教師らの記録
昭和15年安土城発掘調査報告
平成元年から始まった第二次発掘調査報告
(逆に言うと、現地の発掘調査報告を参照できなかった戦前の復元案については、
ほぼ無視してもよいかと考えられる)

内藤昌(名古屋工大教授)氏は、上記資料や報告に加え、
昭和44年に東京の静嘉堂文庫(当時、国会図書館分室)で発見された
『天主指図』と題された建物の図面を復元に援用した。
『天主指図』なる図面が「安土城天主の」「設計図面の」「写し」である、
と措定した案である。
図面自体は、もともとは加賀藩の大工棟梁、池上家に伝わってきたものであるという。

内部に吹き抜け空間があるとする内藤昌案

内藤昌案
『復元安土城』講談社選書メチエ、『城の日本史』角川書店、
『信長の夢・安土城発掘』NHK出版ほか

内藤案の特徴は、天主内部に4階吹き抜けの空間があり、ここに宝塔が収まっていた、
とするもの。内部に吹き抜け空間をとったことで、下層の規模がきわめて大きくなった。
また複雑になった外観とあいまって、「壮大」「壮麗」という印象を与えるものである。
NHKがこの内藤案を支持し、CGを作って繰り返し放送した。
セビリア万博に出展された復元模型も、この内藤案に従ったものである。
おおかたの日本人にとっては、いまや安土城天主といえば、
この案を指すのではないだろうか。

しかし、この案には、ひとつ決定的な弱点がある。
安土城天主の内装について詳しく記した『安土日記』にも、
安土城について多くの記述を残しているフロイスの記録にも、
吹き抜け空間のことなど、まったく記されていないのだ。
現代の日本人が聞いても驚きのあるその吹き抜け空間について、
同時代の誰も(安土城天主を見た者誰も)、言及していないのに、
ほんとうにそんな空間があったのだろうか。

それは、復元案のもととなった『天主指図』と題された図面が、
ほんとうに「安土城天主の」「設計図面の」「写し」かどうか、
という問題にもつながってくる。

吹き抜け空間存在説の根拠

『安土日記』は、安土城天主の内装と部屋割り、外観については、
わりあい解読しやすく記してある。どの説も、上一層の望楼と、その下の階の
朱塗りの八角形のフロアについては、ほぼ共通しているのはこのためである。
(屋根の形、壁の造りなど、部分的には、それぞれ解釈のちがいがあるが)

『安土日記』の議論を呼ぶ箇所のひとつは、天主1階の広さについての記述だ。
「石くらの上、広さ北南へ二十間、西東へ十七間」
という記述を、天主1階の床面積だと解釈すると、内部の部屋割りの記述と
合わなくなる。建物中央部に空っぽの空間があると考えるか、部屋の外に広い廊下でも
想定しないことには、その広さを埋めることができなくなってしまうのである。

発掘調査までは、研究者たちはこの記述を、ストレートに、
1階の矩形の平面の長辺短辺の長さと解釈していた。
しかし、昭和15年の発掘調査とその後の一部の石積みの復元により、
天主台のおおよそのかたちがわかった(ただし、復元にあたった石積み職人の
粟田万喜蔵氏は、その正確さについては自分でも自信がないと証言したという)。

現在復元されている天主台は、不整形八角形であり、
ここに広さ二十間十七間の建物を載せると、天主台をはみだしてしまう。
しかし、この数字が天主台の上面の最長幅をそれぞれ記したものと解釈すると、
復元との矛盾はなくなる。つまり『安土日記』の記述は、天主一階の広さを
記しているのではなく、天主台のおおよその規模を言っているのだ、とも読める。

内藤案は、『安土日記』のこの部分を、やはり建物の一階の広さを記したものと解釈する。
すなわち、安土城天主は、この不整形八角形の天主台の天端いっぱいに
建てられていたという。
この場合、内側に吹き抜け空間があった、とすると、
『安土日記』の部屋割りの記述とは矛盾しなくなる、というものである。

もうひとつ、その根拠として、内藤氏は先に記した『天主指図』という図面を挙げる。
これは、吹き抜け以外の空間については『安土日記』の記述と合致しており、
一階外縁の描線も、復元されるまで知られていなかった不整形八角形の天守台と
ほぼ同じであったという。だから、内藤氏の判断では、
これは「安土城の設計図面の写し」である、となる。

『天主指図』の特徴

『天主指図』を「安土城の」「設計図面の」「写し」だとすると、
『安土日記』等には見られぬ特異な構造が具体的に記されている。

  1. 1階部分は不整形八角形。
  2. 地階から3階まで、6間4間の広さの吹き抜け空間がある。
  3. 吹き抜け空間には、宝塔が収まっている。
  4. 吹き抜け2階部分に、せりだしの舞台がある。
  5. 吹き抜け3階には、回廊と渡り廊下がある。

言葉で聞くだけでも、当時としては破天荒な空間であったと思える。
じっさい、この図面をもとに作られたCGを見ても、
この吹き抜け空間はわたしたちを驚かせてくれる。
信長ならこのような空間を持つ天主を作っても不思議はない、と思えてくるほどに、
魅力的な復元案である。

しかし、その吹き抜け空間に自分の身を置いた気分で冷静に検討してみると、
この吹き抜け空間は、ずいぶんと不自然なのだ。

つづめて言うと、吹き抜け存在説にはわたしは否定的となった

安土城の天主台の上に立ち、またずいぶん城については比較しつつ考えてきた結果、
わたしはいまは、内藤昌案には否定的である。
内部に吹き抜けはなかったろう。以下、その理由を記したい。

記録がないことの不可思議

小説家の立場としては、そこに記録がなければ、あったことにしてもいい。
否定できないことについては、正史の記述者は触れなかったのだ、と見るのが正しい。

ただ、安土城の天主の吹き抜け空間については、同時代の者が、あるいは
正史の記述者が隠すべき、もしくは否定すべき理由は何もない。
ましてや天主が竣工したとき、織田信長は部下たちばかりではなく、
わざわざ拝観料まで取って、地元の住人や近在の有力者たちに公開している。
その中には、みずから記録する者はいなかったにしても、噂としては広められた
はずである。なのにこれまで、『天主指図』が発見されるまで、吹き抜けの存在について
なにひとつ記述が残っていないというのは奇妙すぎる。

わざわざ不整形八角形の建物を建てることの不可解

安土城天主台には、発掘された石倉(地下室)部分の礎石が、整然と姿を見せている。
これは、天主台が造られようとしているとき、すでに天主の設計はなされていたことを
意味している。石積み職人が、適当に礎石を置いたのではない。
天主のその規模、かたちについて、石積み職人衆は事前に建築プランを熟知していた。
そのうえで、天主台の石を積み、必要な場所に礎石を埋めていったのである。

すると、内藤案の場合、天主の設計者は、最初から1階部分を不整形八角形という、
工事のしにくい、ふしぎな建物として構想していたことになる。
なぜそんなかたちの建物をわざわざ造らねばならないか。

当時は、まだ算木積みの技術は未発達であったから、石積み職人たちが
天端いっぱいに建てる建物のため、設計図に対して寸分の狂いもない天主台を
築くことは無理があったろう。
しかし内藤案では、穴太衆は、天主の設計に合わせて、
じつに正確に不整形八角形の天主台を積み上げたことになる。
もしその技術があるなら、設計者は正確な四角形の天主台を穴太衆に要求したろうし、
穴太衆もこれに応えたはずである。あえて不整形八角形の建物を構想する
必要はなかった。

天主台に立った直感で言えば、安土城の天主は、近世の城郭のように
天主台の天端いっぱいに建てられたのではなく、少しひっこめて、
建てられたのである。穴太衆は、天主の外側にマージンを取るように天主台を積んだ、
と、わたしは想像する。
つまり、天主の一階は、内藤案よりもずっと小さなものであった。
吹き抜け空間が入る余地はなかった。

吹き抜け空間の奇妙な構造

吹き抜け存在説をとる研究家はおおむね、安土城天主を、宗教的建築であったとみる。
西洋の聖堂と吹き抜けのある安土城天主の構造が対応する、
という見方を示しているひともいて、これはこれで説得力のある見解である。

しかし、安土城は、通用口途中に総見寺(当て字)という寺を置く構成である。
三重の塔まであるのだ。天主までが宗教建築であらねばならぬ必然性は薄い。
もちろん、居館であること以上に、信長の世界観、宇宙観が反映された空間である
ことはたしかであるが。

天主が宗教建築だとすると、吹き抜けに置かれた宝塔の意味もわかるのだが、
だとしても奇妙なことがある。

吹き抜け空間に宝塔が置かれていたとすれば、それは宇宙へ通じる意志の
具体化ということだろう。宝塔の先端部が差し示すものは、宇宙の中心であるはずである。
ところがこの吹き抜けでは、3階にある渡り廊下で、その意志がいったん遮られるのだ。
上二層目、上一層目は居住空間ではなく、象徴性の強い非日常空間であるから、
これが宝塔の真上にあるのはよいとして、なぜせっかく宇宙を示す意志を、
渡り廊下のような構造物で遮るのだろう。
東大寺大仏殿の大仏の頭の上に、展望台を設けるようなものだ。
下から見上げたとき、宝塔の頂点のさらに上にあるのは、天蓋としての天井だけでよい。

また、この渡り廊下と2階のせりだしの舞台は、せっかく内部に造った吹き抜けの空間の
規模を小さく見せる。スケール感を殺すのだ。こんなものを造る必要があるか。

3階渡り廊下は、長方形の空間の長辺に取られている。
吹き抜け空間を上から見せるためであれば、渡り廊下は短辺の側に取るべきだろう。
それが自然、とも思う。この渡り廊下の作りかたは、
人間の生理を無視しているように感じられるのだが。

さらに、渡り廊下は、吹き抜け空間の展望台であると同時に、
宇宙を水平方向にどこまでも延びようとする意志の表現だろう。
とすれば、渡り廊下の前後は、そのまま建物の外へと延びると錯覚さえ覚えるような
設計にするのがほんとうではないか。
たとえば、渡り廊下の延長線上には破風窓があるような。
なのにこの渡り廊下は、前後を柱でふさがれている。廊下を渡りきったら、
ドンとゆきどまりなのだ。本来持つはずの渡り廊下の意味が、死んでいる。

また、 一間幅の渡り廊下を作る場合、一間の間隔を取って渡した二本の梁の上に
根太を架け、この上に床板を張って作るのが、まずふつうの構造だろう。
ところがこの渡り廊下は、一本の梁の上に載せられている。
一間も幅のある構造物である以上、床の左右の端の下には、根太を架けるべき梁が
絶対に必要となるはずだが、図面には、その梁は見当たらないのだ。
図示されてはいないがある、と仮定したとしても、その場合、中央の梁よりも細いものが、
下から柱で支えられることなしに六間の長さで渡されているということである。
この廊下を、恐怖感なしに渡ることができるひとがいるだろうか。
吹き抜け空間をのぞこうと、手すりのほうに寄ることもできない。
こんな渡り廊下は実在しえない。

渡り廊下のあるフロアには、せりだしの回廊(縁)がある。
これもやはりせっかくの吹き抜けのスケール感をそぐ。
わたしが設計者なら、回廊は吹き抜け空間の外側に追いやる。

地階の床から立ち上がる太い2本の柱は、3階の渡り廊下の下で消える。
渡り廊下を載せた梁につながって終わり。その上の構造物を支えてはいないのだ。
この柱は、構造上必要だったのか、それとも不要だったのか、疑問。
また、どっちみちここに梁を渡すことが必要であれば、
無理に3階までの吹き抜けの空間にせずに、
2階までの吹き抜けの空間にしたほうが美的であり、合理的ではないか。
宝塔を収めるにも、それで十分なのだ。

同じく3階部分、この二本の太い柱をつなぐように長い一本の梁を渡すよりも、
柱のそれぞれに架けて一本ずつ、吹き抜けの短辺側に二本の梁を渡したほうが、
構造上は強くなるはずである(うまく文章にできないが)。
総じて言って、3階のフロアは、コンセプトだけではなく、
建築技術的にも不自然という印象を受ける。

1階2階部分の納戸スペースが無意味に大きすぎる。2階の納戸などは、
舞台を間近に見ることのできるよい場所をつぶしているし、
1階の吹き抜けを取り巻く納戸の規模とレイアウトは、
信長はせっかくの吹き抜けと宝塔を誰にも見せたくはなかったのか、と思わせる。

結論として、内藤案どおりの吹き抜け空間があったとしたら、
その設計はあまりに奇妙だ。

たぶん織田信長は、この設計案に賛成しなかったろう

以上のような理由で、わたしは内藤復元案はありえなかったと思う。
織田信長に、もし、このような吹き抜け空間のある設計プランが提示されていたなら、
わたしが感じるような疑問点を解決したはずである。
けっして『天主指図』のような建築にはしなかったろう。

では内藤氏がもとにした『天主指図』はいったい何なのか。
内藤案に否定的な研究者たちが言うように、これも『安土日記』の記述をもとに、
後世の誰かが作った「復元案」と考えてよいと思う。
吹き抜けは、『安土日記』に記された1階の面積(と読める記述)と、
内部の部屋割との矛盾を解決しようとして発想されたものだろう。

では、誰の案が

内藤昌案ではないとして、では誰の案が現実の安土城天主にもっとも近いのだろうか。

宮上茂隆案
『歴史群像名城シリーズ、安土城』学研、『復元図譜日本の城』理工学社ほか

宮上茂隆案は、内藤案ほど派手ではないが、威風堂々とした外観である。
戦国末期の武将の美意識をよく伝えている案のように感じられる。
天主台の広さと天主底面積の差についても、天主曲輪があった、として、
『安土日記』の記述との整合性をとっている。
内藤案の対抗案としてはもっとも強力。安土城記念館にも、内藤案と並べ、
宮上案による復元模型が展示されている。

兵頭与一郎案
『歴史クローズアップ織田信長』世界文化社、
『安土城再見−天守閣の復元考証』西田書店(佐々木は未見)ほか

兵頭与一郎氏の案は、発掘された礎石を発想のベースとして、
底面積を小さく取ったプランである。すっきりとした細身の天主で、
各層の面積が規則的に逓減してゆく、きわめて端正なシルエット。
外観は五重で、層ごとに壁が金、赤、青、白、白と黒、とに塗り分けられている。
信長が好むとしたらこれかもしれない、と思わせる華麗さがある。

西ケ谷恭弘案
『戦国の城、総説編』学研、『名城の天守総覧』学研ほか

西ケ谷恭弘氏の案は、宮上案と兵頭案の中間に位置するだろうか。
西ケ谷氏も最初は吹き抜け説を採っていたらしいが、いま発表されている案では
吹き抜けには触れられていない(平面図も発表されていない)。
天主台を、現在の復元よりも広く四角形に設定しており、
半地下の1層目と、2層目とが同じ寸法という案。整然としたたたずまいである。
わたしにはこの案も、とても説得力があるように感じられる。

森俊弘案
『城郭史研究』第21号、日本城郭史学会

森俊弘氏の案は、4重目5重目(下から2層目3層目)が同じ寸法というプランで、
やや近世的。破風を持たず、壁は漆喰塗り込めという点が特徴だ。
このため、外観は多少平板という印象を受ける。
ただ、森氏の案は、ムック等ではなく、『城郭史研究』の論文で読んだので、
この復元案に至る『安土日記』解読の過程がよくわかり、やはり納得させられてしまう。

こう並べて書いてみると、どの説にもそれぞれうなずけるものがある。
『天下城』の主人公は、そして施工主・織田信長は、
設計者たちのプレゼンテーションに対してどの案の採用で応えるだろうか。